相思相愛

アイドルに興味なかった人間がアイドルにはまってからの話などを

聡ちゃんが世界で一番きれいで、おしゃれだな

 

2021.2.1 10:20

 ヤマト運輸で代金引換●,●●●円。ダンボール箱に入って、推しが表紙の雑誌が、来た。

上蓋を開くとダンボール箱と同じ色の紙がクシャクシャになって詰め込まれていて、それを外すと、背表紙を上にされた雑誌がぎっちりと詰め込まれている。保存用、観賞用、観賞用の保存用、そのまた保存用……とちょっとここでは言えない数ぶん積まれたそれはきれいに重なって一つの大きな豆腐のように四角く、触るとひんやりとした。普段手にしていた同じ雑誌よりも、なぜか少し重たいように感じる。

 マット加工の背表紙に触れ、雑誌名や出版社名、発行人などの書かれた文字を眺めていると、自分の手が汗でじっとりと湿りだし、穢しているような気持ちになった。

 推しは綺麗だ。

 私なんかが、お金と時間を使うだけで見させていただけるなんて今でも信じられない程、綺麗で、光っている。

 耳の後ろの方で、ケトルがお湯を沸かし終えた音がする。お茶を入れるか、カップラーメンにお湯を入れるか決めないままに沸かしたお湯だった。ここでカップ麺を選んだら、このひんやりとした雑誌の中の推しのいるきれいな場所から、またさらに遠ざかってしまうような気がしてしまって、私はルイボスティーを入れる。ルピシア茶店でいつも必ず買うピッコロという甘いお茶だ。今度推しに書く手紙には、おすすめの紅茶も書こうかな、でも推しの方がきっと詳しいから余計なお世話かもしれないな、と考えながら、茶葉を蒸らす時間を過ごす。

 外は晴れていた。曇りの日がずっと続いて、嬉しくない出来事もあって、そういう日々の中で、「雲一つない青空が見たいね。」とブログに書いていた推しのことを思い出す。

 金髪にした髪の毛はきっと陽の光に透けてらいおんのたてがみのように光るだろう、想像しなくてもわかる。雑誌の表紙で男の子でも女の子でもないような顔で笑っていたから。前髪の隙間から、深く切れこまれた大きなタレ目と涙袋が覗く。あの目の中にある大きくてまあるい眼球には水分がぬらりと張られていて、それは表面張力で落ちてしまうことなく、カメラを見ている。どのくらいの体温で、どのくらいのペースで瞬きをし、何を見たとき瞳孔を開き、何を見た時に光を失うのだろう。そういうことを考えているといつの間にか5分も10分もの時間がワープしたかのように一瞬で過ぎていく。今日は、推しの表紙の雑誌が目の前に届いた日だ。まだダンボール箱に入ったまま、ひんやりと冷たい真四角の、推しの像が目の前にある。本当にある。輝いた推しのその一瞬を、カメラという文明の利器は切り取った。その事実の全てにありがとうと言いたくなる。推しが生きていた証がある。目の前に。

 今日はこの雑誌の発売日だということだけを理由に仕事も遊びも予定を入れないようにしていたので、もうここからやるべき事はこの推しが表紙の雑誌の中身を確認することのほかない。だけれど私はそれから20分後、自作したキノコ入りのオムレツを必死で胃に入れていた。いざ雑誌を見ることだけが目の前に残されてしまうと、何をすべきなのかわからなくなり、いつも過ごしているはずの自室に急に居場所がなくなったようになって、自らの空腹を頼りにすべきことを探した。冷蔵庫を開けると白いぶなしめじと卵がある。卵のパックには2021.2.1と書いてあって、なんて素晴らしい数字の羅列なのだろうと胸がときめく。

 2021.2.1。推しが表紙の雑誌が目の前に届いた日。

 この地球が46億年前に始まってから、ほんとうに色んなことがあって、きっと全部の歴史から数えたらここは最後の最後と言ってもいいくらい終わる直前の今日だろう。私たちの人生は儚く、そして推しの人生も儚い。ひらりと花びらが1枚舞い落ちる程の一瞬で、どうして私は推しの生きている時間の中をちょうど同じように人間として、生きられてしまっているのだろうか。こんなに長い歴史の中だって、推しが雑誌の表紙に一人で載るのは二度目で、そしてそこに、生身の太陽の光が差し込んでいる時の写真が載っているのなんて、本当の本当に初めてだった。

 推しは、グループの太陽と呼ばれている。美形揃いのメンバーの中でも笑顔が一等眩しく、大きなタレ目をとろんと吊り下げて白い歯を半月型にして笑う。もともとすっきりした輪郭は笑うとちょうどまあるいフォルムになり、室内でも何処にいても、推しが笑うとその笑顔自体が発光しているような、そしてその光の成分は蛍光灯でも撮影用のストロボでも蝋燭の灯でもなく本当に宇宙から降り注ぐ太陽光のような、そんな感じがするのだった。

 だけれど本人の目まぐるしく移る表情を追っていくと、それは太陽という言葉だけでは足りないと感じる。たまに、恒星のひとつも無い真っ黒い宇宙の、行ったこともない真っ暗な場所のことを思い出させられる。聡ちゃんには、誰にも作り出せない光と、そして暗闇がある。その両方がとても綺麗で、ほっとけなくて、なにかしてやりたい、という強い想いを私から引き出す。

 推しがステージの上で歌って踊る姿を初めて見たのは2017年に行われたコンサートのBlu-layで、事前に画像を検索していてお顔立ちと笑顔が好みだな、と思っていただけのその男の子は、私の眼前に捉えきれないほどの光量を放って立っていた。

 5人組のグループで、歌のソロパートや見せ場が特別多い訳ではなく、立ち位置で言うと端にいる事が殆どだったけど、そういうことの全部が、本当に関係がなかった。

 目が合った人と、そしてこの笑顔を見た人は絶対に自分のことを好きになる、というあっけらかんと明るい念みたいなもので満ちているようだった。”僕は愛をあげるから、あなたも僕を愛してね”、と言われているような気持ちになった。惜しみなかった。今持っているものを全部差し出すような、指の先まで神経の行き届いたダンス。癖のないアイドルボイスで丁寧に音程を間違えずに歌われる歌。100%の笑顔、一人の目をちゃんと見て好きになったのを確認してから次の人を見つめに行くような、ずるいファンサービス。

 私は、「愛されたい人」に弱い。愛されたい人を見ると、愛して、と言われる前に、絶対に愛さなければいけない、と本能が言う。その無意識の要求自体が、何も無い私にとって何よりもの光に見えた。宙ぶらりんに愛だけを持て余して、それなのに本当に愛せるものなんてあまり多くもない、好きなところよりも嫌いなところの方がずっと多いこの世界でどうしたらいいのか分からずうろたえる私に、「それならこの人を愛すればいいのではないか」と、たったひとつの冴えた提案を差し出されたような気になったのだ。アイドルというのは、愛されることが仕事。普通に生きていると、愛を差し出すことにも、愛を受け取ることにも、それなりに社会的責任や人間関係のしがらみが伴う。恋人は一応、一人だけということにしておかなくてはいけないし、愛情に「友情」や「信頼」や「家族愛」のような名札をつけて整理整頓しないとそれが在ること自体が許されないような、そんな窮屈なルールの中に愛という魂の躍動を押し込めようとするのが、社会生活というものだ。何かを愛したいという強い思いだけでは、人間関係はうまくはいかない。誰かと恋をしても、結ばれても、結婚しても、その先に行ったって決して変わらない聖域が心にほしい。私にとってその、実際の社会生活や人間関係とは切り離された、ひとりぼっちの祭壇のようなものが、推しを推すという感情だった。

 推しはステージから、愛されるために笑いかける。コロナ禍でフリーランスの仕事も例年通りとはいかず、自己肯定感の下がりつつあった私の心にちょうどぽっかりと空いていた穴の形に、本当にたまたまぴったりと、推しのその笑顔がはまったのだと思う。テレビ画面が実際に発光していたわけではないけれど、推しを見た私の顔は確かに照らされた時の顔をしていたと思う。表情筋の動きづらさで、わかった。

 あの眩しい思いを一度でもさせてくれた人のことは、一生愛する。それが私の生きる上でのポリシーで、その思いは恋でも真心でもなく、責任のようなものに近かった

 

2021.2.1 12:30

 「Full Of Love 心を繋ぐ、愛。」と書かれた表紙を見る。webで見た画像よりもずっと、目の前にすると大きく感じて、両手で持って少し離して見つめてみる。もっと私の視界が広かったらより近くで眺められるのに、と思いながら、さっきタンブラーに入れたルイボスティーを一口のみ、緊張で乾いた喉を潤した。

 bisという雑誌は創刊からずっと知っていて、好きなコンセプトの時は買うこともあった。ファッション誌を頑なに見ないタイプのファッションフリークなので、これまで買ってきた雑誌はとても少ない。同じグループの佐藤勝利くんが連載を始めた時には、そうだよなあ、勝利くんみたいにそのままお人形にしても違和感がないくらいきれいなお顔立ちの男の子にはぴったりの雑誌だな、と思った。私はそこそこかわいいけれど、お人形のような可愛さではない。男性からみると少し崩れているくらいがちょうどいい、と喜ばれることもあったけれど、女性同士の「かわいい」の基準の多くは、より整っているということが優先されているように感じた。(あくまで自分の周囲の男性・女性の話なので、全般が、という話ではない)かわいい子はかわいい子としか遊びたがらない、というのは半分偏見だけれど、半分事実だと思う。私は、お人形に近い可愛さを持つ女の子たちにコンプレックスがあった。私が私のことをかわいいと認めようと、お人形にはなれない。だからbisを捲る時にもいつも、ああ、お人形のように整っていて羨ましいな、私も本当はこんなふうに着飾ってみたいけれど、ここはきっと聖域のようなものだから、仲間には入れてもらえないんだろうな。という気持ちになっていた。

 そんなきらきらした寂しさを感じながらページを捲って後半に差し掛かると、推しの特集ページが現れた。ニコ・ペレズ氏がフィルムカメラで撮り下ろした写真たちは、ナチュラルで、それでいて、鮮烈だった。そうだ、鮮烈だったんだ、この人の首の角度、細められた目、何もかもをわかっているようで、何も知らない少年みたいで、私の知らない新しい性別のひとのようで、どこか遠くの小さくて丸い、薔薇の一輪咲いた不思議な惑星から来た子供のよう。ショート丈のパンツから細くてきれいな脚が伸びている。窓から斜めに差す陽は推しの着ているオーバーサイズのデニムジャケットを半分光で飛ばして消した。光の中から生まれたみたい。ずっと昔の記憶の、午後3時の教室でずっと本を読んでいる男の子に話しかけたら、ほんの少し笑ってくれた時のことを思い出す。ずっと知っていたみたいに笑う。この気持ちを何万人、何十万人もの人が同時に味わっているのだとしたら、愛は、愛だけは際限がない唯一のエネルギーなのかもしれないとさえ思った。

 ずっと見たかった、というか、きっと推しを推している人たちのほとんどが頭の中や夢の中でもう見たことがあったのではないかと思うような、そんな見たかった推しの姿がフィルムに焼きついて、それから雑誌に印刷されていた。さらさらと髪をおろしている姿も、くせをつけてもらっておでこを出した姿も、色付きのサングラスをかけているのも、どの髪型もどの衣装もしっくりと来ていた。写真に撮られること、自分という存在の像を残すことにあまりにも適性がある。適性があるというのは、撮られることに対する畏れのようなものが垣間見える瞬間がこれまでにも、ほんの感覚的にだけれど、あったように見えていたからだった。どういうふうにしたら自分がよりよく見えるのか、ずっとどこかで考えているような、そういう振る舞いをする人だと思っている。そういう意識が、ダンスにも、笑い方にも、立ち振る舞いにも、ブログの文章にも、そして写真に写る時にも滲み出ている。よりすてきに見られたいと願う気持ち自体が、私にとっては眩しい。

 推しは、様々な表情を見せる。ファンのうちでは「ギャップに落とされた」と語る人も少なくないほど、何か一つのキャラカテゴリに当てはめようとすると必ずと言っていいほど予想外の面を見せてくる、そういう万華鏡みたいな人なのだ。それを、狙ってやっているのかそうでないのかもよくわからない。だから宇宙みたいで、そしてまだ誰も到達したことのない深海のような人だと私は思っている。いくら解釈しようとしてもたどり着かない場所に、本当の姿があるのかもしれない。世の中にある魅惑的な謎の全てがいつか解かれてしまうのならば、そんなに悲しいことはない。解けない謎は解けないままで、眺めていられること自体が、大きな愛のような気がした。

 インタビューでは、推しのクリエイティブな面やアートやファッションに関心がある点などを掘り下げつつ、家族のフレンチブルドッグの話や、メンバーやグループに対する想いも語られていた。推しの優しくて繊細なところを、そのままの空気感でテキスト化しようとしている気持ちが感じ取られて、とてもいい文章だった。

 

 bisという雑誌について、「みんなお人形さんみたいにきれいでおしゃれだな、〜(中略)〜顔立ちがきれいで何を着ても似合う勝利に、ぴったりな雑誌だな、とも思っていました。」と語る一文を見て、頭の中で星がはじけた。

 本当にこのくらいのことで、こんな気持ちになるのか、と自分自身にびっくりした。きっと楽しそうに話していたのかもしれないし、他意はないのだと思うのだけれど、それでも、それでも、「みんなお人形さんみたいに綺麗だな」と思いながらbisを眺めていた私の、ほんの少しの寂しさが本当にただのきらきらしたちりになって、どこかへ舞っていってしまった気がした。

 この世界にはお顔立ちの整ったタレントやアイドルが山程いて、推しほどの美しいお顔とスタイルを持ってしても芸能界ではそこを特別フィーチャーされることはほとんどないけれど、そういう世の中の基準とか、目の肥えすぎたオーディエンスたちとか、外側の基準は全部関係のない世界で、私と、私たち……聡ちゃんのことを好きで、聡ちゃんに眩しい思いをさせてもらっている人間たちにとっては、どうしたって、あなたが世界で一番きれいで、おしゃれだな。と、そんな毎日思う当たり前のことを改めて、改めて思ったのだった。